「基地返還促進市民協」とは...

〔97.8 監視団ニュースより〕


基地返還促進 市民協の活動をみる 相模原市議 金子豊貴男




7月に入って、横浜ノースドックも関係した山梨県北富士での米軍実弾射撃演習、座間支部との合同に伴う全駐労相模支部の解散大会や厚木爆同の総会、フィリピンから来たシンブランン教授の講演、県内平和行進など基地問題を巡るいくつかの出来事があった。

その最初が7日に開かれた、相模原市米軍基地返還促進市民協議会実行委員会の総会(以下市民協と略す)。今回は、この市民協の活動に焦点を当てて、相模原市の基地行政を検証してみたい。

相模原市が市民協を結成したのは1971年(昭和46)6月11日。前段で、キャンプ淵野辺の電波障害制限地区指定問題を契機に作られた相模原市電波障害制限地区反対実行委員会の運動がある。

この電波障害制限地区反対実行委員会は米軍が、電波受信業務の障害となる雑電波等の発生を防止するために、電波障害地区を全国12か所の基地周辺に設定し、電波障害の原因となる建築等に制限を加えることとし、その中にキャンプ淵野辺も含まれていたため、都市計画上の障害や、周辺住民への影響などが問題になり、市民一丸となった米軍の要求阻止の運動が実行委員会で行われたもの。

この運動の成果が実り、指定問題は1969年頃消滅、71年3月、電波障害制限地区反対実行委員会を発展的に解消、6月の市民協の結成となったもので、市長を会長に市議会議員、自治会、婦人会、労働組合などで構成され、米軍基地の早期返還と跡地の市民優先利用を目的とした。

市民協は結成後7月10日に米軍基地返還促進市民総決起集会を開催、以後、大蔵省や防衛施設庁、アメリカ大使館への陳情をはじめ、市民意識調査の実施。

翌72年になると、相模補給廠へのベトナム戦車阻止の戦いが始まり、市民運動とは別に、市民協でも国や米軍への抗議と市内6か所での地区別市民集会を開いた。

翌年からは米軍基地に関する市民論文の募集や、米軍医療センター返還促進市民のつどい、74年の相模補給廠返還促進市民のつどい、75年のキャンプ淵野辺跡地利用促進市民集会、76年キャンプ淵野辺跡地利用有償3分割案反対市民総決起集会と様々な行動が行われた。

その後、米空母ミッドウェーの横須賀母港化や、それに伴う厚木基地での夜間連続離発着訓練の激化によって、相模原市南部での爆音被害が大きな課題となり、市民上げての署名活動にも取り組んだりした。この爆音問題は現在でも市民協の取り組む課題の一つとなっている。

さて、今年の総会は、舘盛静光前市長から小川勇夫市長へバトンタッチして初めての総会で、市議会議長交替などに伴う、役員改選、昨年度の事業報告、新年度の事業計画が提案され、承認された。

事業報告では基地の返還に関する要請や、米軍機の騒音解消の要請、2月の市内米軍基地の視察が主なものであり、目新しい行動は行われていない。

現在市民協の構成は市長・助役・収入役の市三役、市議会議員全員、教育委員会委員長と教育長、農業委員会会長や市P連会長など別掲の団体代表85名で構成され、その中から、会長以下29名の役員が選出されている。

かって、筆者も理事を務め、現在は実行委員として総会にも参加したが、今年でいえば発言者は筆者一人で、事務局を務める市企画部渉外課の提案を承認するだけになっている。 組織本来の目的である、基地の早期返還や跡地の市民利用優先などはぼやけてしまい、市内外の米軍基地の視察と厚木基地の爆音被害などに対する要請行動と役員会、年一回の総会と当面の対処におわれているのが現状だ。

年間予算が市からの補助金80万円では、たいした事も出来ないが、もう少し市民に直接働きかける前向きな行動の提起が必要なのではないか。

また、組織の構成メンバーも現状の官製団体中心から、市民団体や、市民公募の委員なども入れて、もっと活性化すべきではないかとも思う。 その意味でも市民からの働きかけと提言もあってもいいのではないか?




市民協構成委員

相模原市市長、助役2名、収入役、市議会議長、副議長、議員44名、市教育委員会委員長、教育長、市農業委員会委員長、市PTA連絡協議会会長、相模原ユースネットワーク会長、市地域婦人団体連絡協議会会長、地区自治会連合会会長18名、市農業協同組合理事長、商工会議所会頭、市社会福祉協議会副会長、市消防団団長、市建設業協会会長、交通安全協会会長、南交通安全協会会長、市公民館連絡協議会副会長、全駐労相模支部委員長、相模原・津久井地域連合副議長

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