岩国基地、過去の構想と今 (2)

79年前の「岩国工業港計画」

  2014年の年明け、こうして拡大する岩国基地に79年前にあった「岩国工業港」計画の逸話が思い出されてくる。 これは2014年元日付け「おはよう愛宕山」第457号に書いた初代 岩国市長「永田新之允(ながたしんのじょう)」氏の逸話である。


 永田新之允氏は今から143年前の1871(明治4)年に生まれ、読売新聞社の編集局長や実業の日本社など言論界で活躍、国会議員などを経て岩国町長になった。そして1940年に 周辺合併で初代岩国市長に就任、筆者が小学生の頃には既に市長を引退していたが当時住んでいた市営住宅の近くの棟に彼が住んでいたことをかすかに覚えている。

 その彼が岩国町長時代の1935(昭和10)年、「岩国工業港計画」という構想を打ち立てた。
 山口県で最も長く大きな川「錦川」の河口は広大の遠浅で開発するには絶好の条件を備えた海岸線がそこにあった。こうした自然条件を生かした岩国藩の殿様「吉川氏」も関が原の戦いに破れた あと岩国に居を移封されたのち、減録された石高を増やすために河口の遠浅の埋立てや干拓を奨励したという歴史がある。

 こうした背景を熟知した永田新之允氏が打ち立てた「岩国工業港」計画は錦川河口を広大に開発し、岩国発展の礎を作ろうと企画した。「岩国工業港」計画と記した計画書が永田新之允自叙伝に 全編残されており、設計図書まで綿密に書かれ計画図面は詳細に読み取ることが出来る。(別掲) 
その計画は錦川河口の海岸線一帯を、広島県との境である和木町沖から岩国市南部の由宇町まで数百万坪という広大な規模で開発する。その第一次計画が川下沖の「岩国工業港計画」だった。

 永田新之允氏はこの計画を内務省に協議し、同意も取り実行への手順を移しはじめた。
 ところが、当時の世相はいよいよ戦争への足音高くなる時。構想3年後の1937(昭和13)年4月、突然呉鎮守府の役人が当時の川下村を訪れ岩国工業港予定地を海軍航空隊として利用する という方針が一方的に告げられた。
 当時の軍部は直ちに大突貫工事で川下沖の海軍航空隊建設を開始し、数年で今の岩国基地の形に整えた。永田新之允市長の「岩国工業港計画」はこうして、幻の計画のまま消えてしまった。

 昨年10月、08年7月から続いている岩国爆音訴訟の第25回口頭弁論があった。この法廷で、我々原告側が申請した証人尋問で法廷に立った岩国市の歴史博物館「岩国徴古館」館長であった 宮田伊津美さんが証人に立った。
 ここで彼が紹介したのが、この「岩国工業港計画」である。宮田さんは永田新之允市長の当時の逸話が、軍部にとって如何に有益な計画であったかを解説した。構想に記された計画図面を見れば、 今の沖合移設で拡大された岩国基地の姿がそのままここに有る。

 今になって誰が見ても、岩国の中心にある岩国基地が当時の永田市長の計画どおり開発されていたら岩国という街はいったいどれくらい発展していたか、予測できる計画内容でである。
 街の真ん中に鎮座する普天間基地のそれと、何ら変わりない今の岩国基地の存在を改めて思い知る話がそこにあった。今年はじっくりと、このような今のイワクニ基地の現実をもう一度見直して みたい。

そしてこうして培った私たちの抵抗の精神を、さらに強固に硬め気持ちだけでは無い、実践を通して成果に結び付けて行きたい。そんな基地反対闘争を、2014年の今年も地道にしっかり頑張り 続けたい。

(田村 順玄・岩国市議・RIMPEACE共同代表)



2014-1-4|HOME|