「純子の見聞録」元気ネットワーク2000年9月
しばらく投稿を休んでしまいました。今回の私の社民党離党の理由を皆様にお話しし なければならないのでしょうし、私も書きたいと思っています。しかし当事者以外の 人に取ってみるとそんな理由など殆ど興味はなく、結果に対する事の収拾にのみが関 心事であった事に私自身愕然としています。築き上げてきた組織なり、システムなり がいかに疲労していてもそれを守ろうとする力の前では、その変革は容易なものでは ない事を改めて実感しています。私にも言い分は山のようにあり、こころ惑わされる 日々が続いていますが、多勢に無勢では歯が立ちません。
少なくとも残された議員任期は自分自身の公約にそって、これまで通り頑張るしかな いと思っています。これまで4年余り書かせて頂いた中にその理由の大半は書いてい るのですが、直接の理由についてもあまり興味の無いことなのかもしれませんが、 追々書かせて頂けたらと思っています。
さて、今日のテーマは人捜しです。しばらく開いてなかったeメールを1週間ぶりに 開いて見ましたら、アメリカにお住まいの日本人の方から、「福田正幸さんの遺族を 捜しています」という依頼のお便りが8月14日付けで入っていました。終戦記念日を 明日に控え、年老いたアメリカ従軍兵士が戦後の決算と人生の決算をお考えになった のではないかと想像され、ぜひ捜し出してお知らせ出来たらと思っています。
お便りの内容は、80歳を過ぎた方が、太平洋戦争に従軍したおり、サイパンの洞穴の 中で拾った日章旗を遺族にお返ししたいと望んでいらっしゃるというものでした。そ の旗には佐世保警防団副団長、佐世保京坪町会長さんのお名前や佐世保菓子小売商業 組合理事長のお名前があったとの事でした。幸い私の友人に京坪町の近所で古くか ら、お商売をやっておられる方があり、あちこちに問い合わせをして下さったり、一 緒に調べて廻ったりして下さいました。しかし結果は残念ながら分かりませんでし た。
京坪町は戦前から佐世保の中心商店街で、道路一つ隔てた町内は空襲で消失しました が、幸いにして焼け残り、古くからの方が現在も商いをされておられます。戦後聞き 取りによって書かれた住宅地図と合わせながら、訪ねた方々の証言では、お名前の佐 世保警防団副団長さんは確かに京坪町におられたとのことで皆さんよくご存知でし た。しかしすでにお亡くなりになっておられ、現在郊外に娘さんがおられお尋ね致し ましたが、福田さんの事は分からないとの事でした。佐世保菓子小売商業組合理事長 さんも確かにご近所でお砂糖屋さんをされていたとの事でしたが、近隣の町に引っ越 されたとの情報がありますがその後は分かりませんでした。しかし戦前からのお米屋 (大正14年生まれ)と食堂をやっておられた方(大正13年生まれ)が確かに福田さん という方がご近所におられ、床屋さんをやっておられたとの事です。そこに同じ小学 校に通う同じ年の息子さんがおられ、そのお父さんだったのではないかという事でし たが早くに引っ越されていてお父さんのお名前もその息子さんのお名前も記憶にな く、数年前に一度見かけたが、対馬に現在住んでいると聞いたような気がするとの事 でした。
今回訪ね歩く中で、一概にいえませんが、戦前と戦後の方の対応の違いを実感させら れました。戦後生まれの方の関心は薄く、それに比べ戦争体験者はご自分の事のよう にあちらこちらに問い合わせ協力して下さいましたし、これからも何か分かったら知 らせると約束して、見つかるといいですねと心配して下さいました。薄れゆく記憶と 次々に戦争を知る方々が少なくなる中で、あと20年早かったらと悔やんでおられまし た。
この他、長崎県の恩給担当に尋ねたり、佐世保市遺族会にも行って見ましたが分かり ませんでした。旧軍港市には海軍墓地があり、佐世保のそれは現在、佐世保市が管理 しているのですが、海軍に所属されておられたら、その管理事務所には佐世保から出 征された太平洋戦争戦没者の名簿があると市より伺い、そこにも行って見ました。し かしそこにもお名前はありませんでした。
最後に厚生省が遺留品の調査をやってくれると聞き、直接連絡を取ってみました。そ れには手続きが必要で、調査にはずいぶん時間がかかる事もあるそうです。 驚いた事に、名簿がないこともあるとの事です。どうしてなのかは伺いませんでした が、戦争終盤のドサクサのせいなのでしょうか。それとも焼失したのでしょうか。
今回私も良い勉強をさせて頂きました。お問い合わせがなかったらこんな体験は出来 なかったと思っています。すでに申請書類は私の手元に届き、アメリカからの必要な 連絡を待っているところです。最後に、お心当たりのある方のご一報をぜひお願い致 します。
2000-9-30|HOME|