ベ平連代表小田実さんと並びデモする遠藤さん(1970年)

殺すな!の思想で行動 ベトナム反戦脱走米兵の逃亡を支援

遠藤洋一(Weekly News 西の風 2002年8月9日より)


 ぼくは、その時デモのなかにいた。デモは「ベトナムに平和を!」「日本政府は戦争に協力するな!」などと叫んでいた。政党にも、労働組合にも、何の団体にも所属していないぼくの、ベトナム戦争反対の「意志」を表すことのできる場所がそこにあった。規約や、メンバー登録もなく、人々は自由に集まって「戦争反対」の意思表示のできる場所があった。ぼくは、その時「べ平連」ベトナムに平和を!市民連合(!マークの付いたグループ名なんて、なんて新しかったろう)のデモの中にいた。1968年、二十歳になる前だった。もう30年以上前のことだ。デモは、ベトナム戦争が終わるまでつづいた。
 ぼくにとっての、いや、ことによるとぼくと同世代の、いわゆる「団塊の世代」にとっての「戦争」は、「ベトナム戦争」といえる。アメリカ合衆国のベトナムへの介入、泥沼化した戦場、激しい爆撃、たくさんの犠牲者。ベトナム人も、アメリカ人も。なんて「悲惨」なことなのだろう。ぼくには、そう思えた、しかし、その「戦争」は、海の向こうの「戦争」だった。
 しかし、だんだんぼくにもわかってきた、この「戦争」は、ぼくたちの国、日本が大きく荷担していることを。日本の支援なしには、アメリカはベトナムに介入できないことを。
 日本中のアメリカ軍基地から、沖縄から、横須賀から、横田からたくさんの、軍艦や軍用機が飛び立ち、そしてベトナムで負傷した米軍兵士たちは、東京や埼玉や神奈川の「野戦病院」に運ばれてくることを。一定期間、戦闘に従事した若い軍人たちの「休養と保養に日本が使われていたことを。さらには、ベトナムで破壊された戦車や、軍事車両は日本で修理され、横田や横須賀からベトナムに輸送されることを。
 この戦争は、海の向こうの、かわいそうな、悲惨な話ではなく、ぼくたちの日々の暮らしも大いに関係していることが、だんだんわかってきた。
湾岸戦争の時の横田基地デモ
 そして、何より衝撃的なことがぼくに降りかかってきた。アメリカ軍の「反戦脱走兵」の出現だ。それまで、べ平連の中でニュースの編集や、デモの世話をしていたある日、急遽「アメリカ軍反戦脱走兵」の世話をすることになった。脱走兵たちを、匿い、そしてスエーデンなど脱走兵を受け入れてくれる、外国へ送り出す、そんな運動の末端に参加することになった。
 そこで会った、米兵たちは、みんな若い、ほとんどがぼくと同世代だ。何も知らずに、徴兵され「共産主義から、アメリカを守る」と教えられ、何千キロも離れたベトナムに送られ、やっと得た日本での休暇で逃げてきたやつもいた。ぼくと誕生日が一緒のやつもいた、ぼくの誕生日は、「徴兵日」だった。もし、ぼくもアメリカ合衆国に生まれていたら、徴兵されてベトナムに送られていたかもしれない。戦場にいたかもしれない。「戦争」がもっと、自分の身に迫ったものに感じられた。ぼくも、「殺し」に行っていたかもしれない。彼らとに出会いは、ぼくに、「戦争反対」から、どうやって「戦争を止めるか」に変わっていった。
1990年の横田基地包囲デモ
 ぼくは、横田基地のゲートの前で、米兵に「戦争はもうやめよう」という内容の、英文のビラをまき始めた。もちろん、沖縄や、佐世保や、岩国や、三沢でも仲間たちが、ビラをまき、反戦喫茶を作り、米兵に話しかけていた。ぼくは、早稲田大学の学生だった、国際部のアメリカ人の学生や、キリスト教の神学生、牧師、弁護士、と一緒に「ハウス」に住み、米兵の「兵役拒否」や「軍隊内抵抗運動」のカウンセリングを始めた。デモもした。滑走路の直下で「たこ上げ」をして、軍用機を止めようとした。アメリカの俳優たちの反戦ショーを、今の市民会館にあった「西多摩自治会館」いっぱいに、米兵たちを集めた。演じたのは、ジェーンフォンダやドナルドサザーランドなどの、「FTA」反戦演劇集団だった。
 そして、もう一つ、横田基地が戦争の機械として、どのように働いているかを、監視し始めた。それは、今も続いているぼくの「戦争」反対の意思の表示だ。
 ベトナム戦争は、パリ和平会談、アメリカ軍の撤退、南ベトナム政府の敗退で、1975年4月30日に終わった。1965年のジョンソン大統領の北ベトナム爆撃開始、アメリカの本格介入から、10年がたっていた。それは、ぼくの青春時代の10年でもあった。
ベトナム反戦バッチ
 今年、3月ぼくはかつてのべ平連の皆さん、小田実さんや小沢遼子さんたちと、ベトナムを訪ねた。ホーチミン市の「戦争証跡博物館」に当時のベトナム反戦市民運動の、記録DVDや、写真を寄贈するためだ。若い頃のぼくの写真もあった。ベトナムでの人工透析治療も、受けることになった。その病院は、日本の政府援助(ODA))で建てられた立派な病院だった。しかし、そこは枯れ葉剤の後遺症、ダイオキシン以外に苦しむ患者もいた。「戦争」は、まだベトナムの人々を苦しめていた。
しかし、何よりも今も、横田基地からは、米軍機がアジア中に軍事物資を運び、三沢や嘉手納の米軍戦闘機は、交代でイラク上空をパトロールしている。アフガニスタンの上空を偵察飛行している。「戦争」にとても近いところに私たちは暮らしている。政府か、アメリカの軍事政策を指示する限り、潤沢な「思いやり予算」を米軍につぎ込む限り、わたしたちは「戦争」の近くに居ざるを得ないと思う。
 私にとっての「戦争」=ベトナム戦争から、その後の世界も戦争は絶えない。
 わたしは、横田基地を見続けるし、戦争の機械を止める努力を続けたい