神奈川の基地群、それは“一つの基地”その1

◆国道16号線は昔も今も軍用道路


相模原市議会議員 厚木基地爆音防止期成同盟情宣部長 金子豊貴男


 私の住む相模原市は人口59万人、横浜、川崎に次ぐ神奈川県第3の都市だ。横浜、東京に程近いベッドタウン圏という事情もあって、この25年間で人口を倍増させた町である。その分、農地、雑木林が減り、ショッピングセンター、レジャー施設など大型店舗が幅を利かしているの感が強い。

 ところで、この相模原市の東部地域を南北に縦断する道路に国道16号線がある。40代半ば以上の方なら、「相模原」「国道16号線」と聞いて、思い出すことがあるのではないか。そう、今から26年前の真夏の出来事をである。 1972年8月5日未明、M48戦車が横浜ノースドック入り口の公道でストップさせられた事件である。戦車は米陸軍・相模補給廠から運び出され、国道16号線を一路南下、ノースドックから積み出し、ベトナムの戦場に送られるものだった。前史を含めると半年にも及んだ、この「戦車闘争」の舞台になったのが相模原であり、国道16号線だったのである。 当時、私は学生生活最後の夏休みを使って、相模原・横山丘陵の遺跡発掘調査に携わっていたが、戦車闘争の現場、相模補給廠の西門前テント村にも毎晩、通い詰めていた。ベトナムの戦場から運ばれてきた戦闘車両を修理・再生し、再びベトナムに送り返す…。戦車闘争は、日米安保体制、在日米軍基地が何のためにあるのかを白日の下にさらし出す闘いだったと思う。また、自慢になる話しではないが、「相模原」の名を全国に知らしめる出来事でもあった。


…………………………………………………… ※戦車闘争のコラム

 1972年8月5日未明、横浜ノースドック進入口に架かる村雨橋手前で、社会党員・神奈川県評傘下の労働組合員がスクラムを組み、トレーラーに載せられたM48戦車の搬送を止めた。飛鳥田一雄横浜市長が「車両制限令」を根拠に、市道使用の許可を取らぬ重量物−戦車の待ったをかけたのである。戦車は相模補給廠に戻され、以降9月18日まで、同基地正面ゲート前にテント村ができ、戦闘車両は基地内に釘づけとなった。

 結局は9月19日未明のテント村撤去を期に、戦闘車両の搬送が再開されてしまうが、闘いの意味は小さなものではなかった。1カ月半に及ぶ搬送停止は、ベトナム戦争末期の米軍の作戦行動に大きな影響を及ぼした。ベトナム民衆との連帯という点で、特筆すべき闘いだった。2点目は日米安保条約と在日米軍基地の果たす役割を目に見える形で示したこと、3点目は米軍の活動にも国内法が適用できる実例となったことである。26年前のことだが、この闘いが提起した問題は少しも古くはなっていない。

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国道16号線は今も軍用道路

 いま、相模原市内の国道16号線はファミリーレストランのメッカの様相である。多くは24時間営業、さらにガソリンスタンド、大型ショッピングセンターも数多く立ち並んでいる。加えて、大型トラック、トレーラーも多数行き交う県内有数の産業道路でもある。夜昼の別なく、賑やかで喧騒な国道である。

 しかし、この道路が今も軍用道路として働いている実態は意外なほど知られていない。例えば、沖縄の国道58号線のように海兵隊の軍用車両が行き交うのと違って、輸送の多くが民間業者の車両によっているという事情もあるのだろう。載せている木箱や段ボールに貼られたラベルを見れば、それらが軍事物資であることは分かるのだが、走行している車両のそれを見るのは容易なことではない。また、最近の軍事物資の多くはコンテナ便で、これだと民需品の輸送と全く区別がつかない。感心している場合ではないが、米軍の言う通り、コンテナ便は確かに防護性、機密性に優れた輸送手段である。

 やや話しが横道に逸れてしまったが、国道16号線が今も軍用道路だという本論に戻ろう。目を相模原から神奈川県に広げて見たい。地図を見れば一目瞭然、神奈川県の東部を南北に縦断する道路、それが国道16号線である。南の端の横須賀から北上してみると、その沿線に神奈川の主な米軍基地が点在しているのがよくわかる(別掲地図参照)。


様々な顔を持つ米軍基地群

◆横須賀海軍基地

 ここに司令部を置く第7艦隊は、東はハワイから西はアフリカ喜望峰まで、インド洋と太平洋西半分を守備範囲とする。空母インディペンデンスを含めて、米海軍艦艇11隻がここを母港にしているが、これら空母戦闘団を構成する艦艇は交代、更新を繰り返しながら、戦闘力を高め、かつ行動範囲を広げている。本年1月にも、イラク空爆を目的に空母などが派遣され、今もぺルシャ湾に展開中である(4月20日現在)。

 米海兵隊が唯一、海外に師団規模で駐留する地が沖縄であるのと同様に、米海軍が主力艦艇を唯一、海外母港にしている地、それが横須賀なのである。

◆浦郷弾薬庫

 横須賀湾には海軍基地の他にも、吾妻島倉庫地区、浦郷倉庫地区という米軍施設がある。前者は貯油施設で厚木基地へのジェット燃料の供給元になっている。後者は東日本最大の弾薬庫で、横須賀を母港とする艦船の弾薬を保管・供給している。湾岸戦争症候群を引き起こしている劣化ウラン弾が貯蔵されている疑いの濃い施設。住宅密集地に近接していること、周辺住民に輸送の告知もないなど、近年、その危険性が盛んに指摘されている基地である。

◆池子住宅地区

 旧日本海軍が弾薬庫として建設、米海軍も引き続き、弾薬庫として使用した。朝鮮戦争、ベトナム戦争に際して活発な動きを示した。弾薬庫機能が閉鎖となってから4年後の1982年、米軍住宅計画が急浮上し、建設が強行された。建設費用は全額「思いやり予算」で、1998年3月、全戸 854戸が完成した。前出、横須賀基地の機能強化にともなって、住宅基地が出来上がったというわけだ。

◆横浜ノースドック

 池子から北上すると、小柴貯油施設、根岸住宅地区などがあり、さらに海沿いに横浜ノースドック、鶴見貯油施設と続く。北に進路をとると、上瀬谷、深谷の通信基地がある。池子住宅地区の一部を含め、横浜市には9つの米軍基地がある(1998年4月現在)。

 横浜ノースドックは港ヨコハマの一角に陣取る米軍の専用埠頭だ。朝鮮戦争、ベトナム戦争の時代にフル稼働、ここから戦地に軍事物資、戦闘車両が積み出されて行った。その時代とは比較にならないが、昨年はグアムから海軍補給センターが移転してきたり、沖縄の砲撃演習の本土移転で東・北富士への玄関口になったりとの動きを見せた。冷蔵倉庫などの移転・建設、埠頭の拡張も進行中だ。

◆本牧埠頭

 横浜港の南にあるこの埠頭は市の管理する公共埠頭で、米軍基地ではない。しかし、軍事物資の多くが実は、この埠頭を舞台に行き来している。まるでキリンが並んでいるかのようなクレーンの列。これで大型コンテナを吊り上げるのだ。

 湾岸戦争の前から、米軍物資の輸送は専らコンテナによっている。運ぶに便利で、物も傷まない。湾岸戦争時、相模補給廠から出たコンテナ便は本牧埠頭経由でペルシャ湾に送られた。本牧埠頭は隠れた米軍基地である。

◆上瀬谷通信基地(支援施設)

 かつて「上瀬谷電波受信施設」と呼ばれていた頃、ここははるかインド洋にまで展開する第7艦隊からの通信を受信したり、旧ソ連や朝鮮半島の通信を傍受する基地だった。奇妙な形のアンテナも数多く林立させてもいた。90年代はじめから徐々にアンテナを撤去、95年に「支援施設」へと名称を変えた。

 1994年3月に米軍が作った「上瀬谷基地土地利用計画書」の一節−「 600戸の家族住宅、倉庫、屋外レクリエーション施設を作ることが望ましい」。池子の住宅だけでは足りないのか!? 日本政府は不知を繰り返すが、要注意の動き。

◆厚木基地

 空母インディペンデンスの艦載機80余機のホームベースである。同空母が横須賀にいる間、これら艦載機は連日、タッチ・アンド・ゴーの連続離発着訓練を行う。1973年、空母ミッドウェーが横須賀を母港にして以来25年、まき散らす爆音が周辺住民を苦しませている(4月現在、第3次爆音訴訟に5000人余が原告として参加)。

 他に海兵隊機、陸軍機も飛来、さらに海上自衛隊の対潜哨戒機P3Cの20数機もここをホームベースとしている。艦載機が留守の間は、P3Cが主となって連続離発着訓練をすることもある。

◆キャンプ座間

◆相模総合補給廠

 キャンプ座間は在日米陸軍司令部の置かれる基地。日本周辺有事となったら、米本国からやってくる部隊を指揮する役目を負う。情報部隊も常駐しているが、その実態は不明。しかし、日頃はここが米軍基地かと思えるほど、のどかに見えてしまう、緑多き基地である。「思いやり予算」をふんだんに使ったリゾート基地といった風なのだ。

 相模補給廠は、いわばキャンプ座間の管理下にある補給施設。こちらの方は野積み場、倉庫、スクラップ類に陣取られた、殺風景な景色の広がる基地である。今は戦車の修理などはしていないが、様々な戦場用資材を保管・備蓄している。小火器類、戦争非常食、医療資材、パイプラインセット等々。また、近隣基地群から出る危険廃棄物の一時保管を引き受ける基地でもある。

◆横田空軍基地(東京

 相模補給廠が神奈川の基地群の北の端になるが、同基地を出て国道16号線をさらに北上する。約20km、車で1時間くらいで東京は福生市にある横田基地に辿り着く。ここは空軍司令部だけではなく、在日米軍全体の司令部の置かれる基地だ。厚木基地より二回りほど大きいこの基地の“顔”は大型輸送機。16号線沿いのドライブインの屋上に上がれば、これら輸送機と基地全体を一望できる。とにかく広い。なお、ここで使用するジェット燃料は鶴見貯油施設から鉄道便で送られてくる。


 第7艦隊司令部の置かれる横須賀基地から横田基地まで、直線距離で約60km、国道16号線を辿ると車で2〜3時間はかかるが、ヘリコプターで飛べば20分くらいという距離だ。この距離、世界大で動く米軍にとっては“物の数”ではない。“一つの基地”といってもいいほどの距離の中に、見ての通り、在日米軍の各軍司令部の全てが集まっているのだ。さらに、その間に様々な顔、機能を持った基地がある。国道16号線はそれら米軍基地を結ぶのに便利な道路であるという事情は昔も今も変わってはいないのである。

 ただ、例えば戦車闘争の頃との際立った違いは、軍事物資の輸送手段が民間業者であり、コンテナ主体になっていることだ。沖縄の国道58号線を海兵隊のトラックが頻繁に行き交うような物々しい様を、国道16号線で見ることはまれである。

 湾岸戦争に際して、相模補給廠から 500床の艦隊病院セット一式が搬出されたが、車両60両を除いて、残りはコンテナ便(460個)のだった。また、95年春と97年秋の2回、パイプラインセットが同補給廠に搬入されたが、コンテナ1300個の便だった。いずれも、輸送は全て民間業者のトレ−ラーによる。基地に出入りする現場でも見ないかぎり、それが軍事物資・資材であることなど全く分かりはしない。

 弾薬や大砲も例外ではない。広島の秋月弾薬廠からはしばしば、浦郷、厚木、座間、横田の米軍基地に弾薬を運ばれてくるが、これも民間業者のトラック便だ。沖縄海兵隊が東・北富士で砲撃演習をするに際して、横浜ノースドックがその陸揚げ基地となったが、ここでも富士までの輸送は民間業者の手によっている。

 神奈川で米軍の輸送実態を見る時、「民間が有する能力」はずっと以前から、日常的に活用されてしまっている。不本意ながら、横須賀基地から横田基地まで、陸・海・空の米軍基地群を結ぶ国道16号線はその輸送の幹線道路となっているのである。


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