神奈川の基地群、それは“一つの基地”その2

◆先取りされる「周辺事態」


相模原市議会議員 厚木基地爆音防止期成同盟情宣部長 金子豊貴男


 1998年、厚木基地の新年は突然のNLP(Night Landing Practice)、夜間連続離発着訓練で始まった。しかも、それは基地周辺の住民が長年の爆音の苦しみの末に勝ち取ってきた慣例を、ことごとく破るやり方で強行された。

 第一に、一週間以上前の通告という慣例を無視して、直前通告−即日実施されたこと(同時に実施された岩国基地の場合は事後通告)。第二に、訓練飛行は午後10時までという米国(軍)も合意した飛行協定(1963.9.19 承認)に反し、午後11時59分までと通告、実施されたこと。第三に、同協定、慣例に反し、土・日曜も通告、実施されたこと。

 訓練したい時には訓練する、住民との約束も破る時には破る、そんな軍隊の論理を改めて思い知らされる新年の出来事だった。

 1月23日、空母インディペンデンスがイラクへの軍事威圧・行動のため、母港の横須賀を出港した。まさに、厚木基地などでの突然のNLP訓練は空母の出港、そしてイラク空爆に備えてのものだったのだ。


   第7艦隊の行動範囲は地球の半分

 1月21日、出港を2日後に控えたインディペンデンスをコーエン米国防長官が訪れ、乗組員を前にこう言った。「諸君らは『ニミッツ』と交代するために湾岸に派遣される。重要で危険なミッションだが、“超大国”アメリカの力を見せつけてほしい」(神奈川新聞98.1.22 )と。

 横須賀からペルシャ湾へ。しかも、イラクへの威圧、空爆を目的にした出港だ。在日米軍基地から直接、戦地、戦闘行動に派遣されるというわけだ。ならば、日米両政府との間で「事前協議」はされたのか。

 横須賀市基地対策課の照会に外務省は、こう答えている(要旨)。

  1. 戦闘作戦行動とは、直接、戦闘に従事することを目的にした軍事行動を指す。米軍の運用上の都合で米軍艦船および部隊をわが国から他の地域に移動させることは、事前協議の対象にはならない。
  2. 日米安保条約第6条は、米軍が「わが国の安全および極東の平和と安全の維持」という目的のために、わが国の施設・区域を使用することを認めている。米海軍部隊は抑止力をもって、その目的に寄与しており、空母などの艦船が中東湾岸など「極東」の外の海域を巡回しても、そのような実態が損なわれることはなく、第6条には違反しない

(神奈川新聞1998.2.3)。

 使い古された言い回しだが、「米軍の運用上の都合」とは魔法の言葉のようである。この一言で、米軍の軍事行動、基地の諸問題の追及が止まってしまうのだ。

 横須賀からペルシャ湾に展開した空母と随伴艦は、イラク空爆を目的に派遣される、と当の米国防長官が言明していたのは何だったのか。

 今の「事前協議制度」はかえって、事前協議がないことを盾に、米軍にフリーハンドを与える制度になってしまっている。

 また、「巡回」なら横須賀母港の艦船はどこに派遣されてもいいというわけだ。去る5月22日の外務省北米局長の国会答弁は、新ガイドラインの想定する周辺事態は極東とその周辺地域に限られるとしたが、当の米軍ははるか中東にまで繰り出しているのである。米軍のフリーハンドに縛りがかからない限り、「周辺」は伸縮自在なのだ。

 しかし、横須賀に司令部を置く第7艦隊はもともと東はハワイから西は喜望峰まで守備(攻撃)範囲とし、地球の半分を行動半径にしている艦隊だ。空母インディペンデンスの航跡(別掲地図)を見てほしい。地球の半分は単なる例え話でないことがわかると思う。しかも、ただ「巡回」しているだけではない。1991年の湾岸戦争の際、第7艦隊はイラク空爆の“主役”まで演じたのである。横須賀を出港、「巡回」途上で指令を受ける形をとって、イラク空爆作戦に従事したというわけである。


   湾岸戦争、第7艦隊は空爆の主役

 1991年1月17日に始まった湾岸戦争は、在日米軍、そして神奈川の基地群が果たす役割を改めて明らかにするものだった。

 横須賀からは、母港にしていた第7艦隊の艦船10隻(当時)のうち、7隻が参戦した。 イラク軍のクウェート侵攻直後の1990年8月14日、旗艦ブルーリッジが横須賀を出港したが、同艦に乗る第7艦隊のモーズ司令官は米中央軍海軍司令官に就いた。ブルーリッジは 130隻の米艦と50隻以上の多国籍軍艦からなる、第2次世界大戦以来最大の海軍部隊を指揮する役割を担ったのである。

 空母ミッドウェー(当時)はペルシャ湾に展開していた空母4隻の旗艦(指揮艦)の役割を果たす一方、自らも空爆作戦の発進基地となった。開戦から終戦まで、艦載機は3300回もの空爆を繰り返したのである。また、ミッドウェーとともに参戦した艦船、バンカーヒル、モービルベイ、ファイフも巡航ミサイル・トマホークでの空爆を繰り返した。わけても、ファイフは58発を発射、発射口61のほとんどを空にして、横須賀に戻ってきたのである。ちなみに、この数字は湾岸戦争に参戦したトマホーク艦のうちで、一番多いものであった。

 湾岸戦争から7年半。年々、更新を続けながら、横須賀を母港とする艦船は現在11隻。佐世保の6隻と合わせて米海軍唯一の海外母港として、戦力の近代化が進行中なのである。 空母はミッドウェーから、一回り大きいインディペンデンスへ、さらに今年8月にはキティーホークへ変わる。

 空母随伴艦の方の強化、近代化はさらに進んでいる。旗艦、空母を除く随伴艦9隻のうちトマホーク発射装置を持つ艦船が6隻、 200の目標を捕らえ、必要なミサイルを瞬時に判断し、一度に18基も打ち出すことのできる「イージスシステム」を装備した艦船が5隻、という具合である。艦船の近代化と並行して、桟橋の延長など施設の拡張も着実に進行。今は空母の着岸する12号バースを全長 400mにすることが計画されている。これによって、原子力空母の受入れ態勢も整うことになる。ここでは詳しくは述べないが、こうした受け皿づくりの元が「思いやり予算」であることも銘記しておきたい。

 残念ながら、在日米海軍・第7艦隊は湾岸戦争時と比較して、ミサイル攻撃力、防空能力などを一段と高めていると言わざるを得ない。6月7日に帰港した空母インディペンデンスは今年1月の出港後、4ヵ月にわたってペルシャ湾に居座り、イラクへの威嚇、空爆態勢をとっていた。横須賀基地を母港とする第7艦隊は戦力の強化を図りつつ、地球の半分にも及ぶ「周辺」に睨みを利かしているのだ。


厚木基地のNLP、一体何のため!

 1973年の空母ミッドウェーの横須賀母港化を期に、厚木基地は空母艦載機のホームベースとなった。以来25年、インディペンデンスとの交代、艦載機の更新を図りながら、この地での離発着訓練が繰り返されている。それは、最高裁判決(1995.12)をして「違法状態」と言わしめるほどの爆音を周辺に撒き散らす25年でもあった。

 冒頭にも書いたが、今年の1月、厚木基地周辺の住民は突然の爆音に襲われた。今までの約束事や慣例を踏みにじった、NLP(夜間離発着訓練)の強行実施である。抜本的な策ではないが、住民の苦痛を少しでも和らげる策として出された硫黄島での訓練実施という数年間の実績まで反古にする暴挙だった。7日間 547回(昼間の分を含めると1339回)に及んだNLPを終えた後、艦載機はインディペンデンスに載ってペルシャ湾へ向かった。イラクへの空爆という役目を果たすために、である。

 幸いにして、イラクへの軍事制裁、空爆は回避された。しかし、新年早々の爆音禍は、25年間にわたって続けられる離発着訓練が空母を発進基地として行われる対地攻撃、空爆のためのものであることを、改めて示す事件だった。1991年1月17日の湾岸戦争開戦に際しても、ミッドウェー艦載機は最初の空爆作戦に加わった。イラク海軍哨戒艦3隻を沈めたのを皮切りに、3300回もの空爆を繰り返したのである(米海軍広報局「『砂漠の嵐』作戦1991における海軍・海兵隊」1991春)。

 厚木基地周辺の住民に爆音被害をまき散らす空母艦載機は、いざ戦争となれば、今度は相手国の住民に爆弾の雨を降らす。私たちが受ける爆音被害と、それら空爆攻撃は一繋がりのものなのだ。湾岸戦争と年初の事件が何よりの証拠、というべきである。そして、艦載機が繰り出す「周辺」とは、空母インディペンデンスのそれと同じものなのだ。

 詳述はできないが、厚木基地の別の“顔”を二つ、取りあげておこう。一つは1980年代後半から始まり、最近、被害が顕在化してきた低空飛行訓練問題。空母艦載機と海兵隊機が全国各地で低空飛行を繰り返しているが、厚木基地は岩国基地とともにその発進基地となっている。日本政府は基地間の移動と称して認めようとしないが。ルート型については、両基地を合わせて96年1042回、97年 628回の発進を繰り返している(詳細は「日本全国が低空飛行訓練基地に」リムピース編−1998.4を読んでほしい)。

 二つ目は、海上自衛隊の航空集団司令部としての“顔”。1981年12月に対潜哨戒機P3Cが最初に配備され、現在20数機(海上自衛隊全体で約 100機)が常駐している。空母艦載機が留守の間は、これらP3Cが厚木基地の主となっている。


相模補給廠、戦時への備え着々と…

 神奈川の基地群は大きく分けると、海軍の系列と陸軍の系列に分けられる。やや強引は言い方だが、前者は横須賀、厚木に代表され、後者はキャンプ座間、相模補給廠に代表されると言っていい。

 私が議員をしている相模原市は後者の二つの基地を抱えているが、もう一つの米軍専用住宅地区と合わせて、市域の5%がこれらの基地に占有されている。たしかに、基地の街なのだが、そこにいるのは実戦部隊ではなく、司令部部門、管理部門の士官・兵士で、軍人が闊歩する様は見当たらない。日頃、市民に見せる米軍基地の“顔”も穏やかなものと言っていいかもしれない。

 しかし、節目節目では“戦争の顔”を見せるし、戦時への備えも怠りなく進められている。特に、相模補給廠に警戒すべき動きが多い。

 1997年2月、私は「相模原市米軍基地返還促進市民協議会」のメンバーとして、相模補給廠を視察した。そこで、米軍の担当大佐は、補給廠の主な任務は弾薬を除く非常時の兵站・戦時備蓄だ、と明言した。そのうえで、現況と将来計画についても次のように説明た。(当日筆記のメモと写真から※その後の動き)

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  1. 相模補給廠の任務が日本の防衛でなく、インド洋も含め、第7艦隊の守備範囲と同じアジア・太平洋に及んでいる。
  2. 630個のコンテナで構成されている内陸部石油輸送システムが、もう1セット配備される。※97年秋搬入
  3. ハワイのパラシュートなどの保管業務がくる(第25軽歩兵師団の空輸パレットのことか!?)。
  4. 横浜ノースドックに、現在ディエゴガルシアに配備している陸軍の事前集積艦(アメリカン・コーモラント号)を移動する。しかし、この交渉は順調にはいっていない。
  5. 移動病院システムの保管・検査は5年のサイクル。※98年5月点検
  6. 昨年稼働したクリーニング工場は陸軍と空軍のもので、そのうち空軍が44%を占め る。
  7. 昨年暮、6000種類の物資が運び込まれ、一ケ月の応援体制が組まれた。
  8. 第17地域支援群(相模補給廠)は 300台の非戦闘用車両を持っている。

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少し意味不明な点、解説を要する点もある。紙数の都合上、割愛せざるを得ないが、相模補給廠の“顔”が十分に覗ける回答だと思う。戦時備蓄品に限っていえば、他に口径20ミリ以下の銃火器、戦争非常食、医療資器材、戦場用資材などがある。これら備蓄品が、新改築の進む倉庫群に収まっているというわけだ。 ところで、横須賀や厚木と同様、この基地も湾岸戦争に連動する動きを見せた。 500床の艦隊病院セット一式(コンテナ 460個分、車両60両、発電機30個)、地上戦用鉄製資材(コンテナ 140個分)を本牧埠頭経由で、化学戦用防護服一式を横田基地経由でペルシャ湾岸へと送り出したのである。

     ◆    ◆    ◆

 去る4月28日、日本政府は「周辺事態に際して我が国の平和と安全を確保するための措置に関する法律(案)」を閣議決定、今国会への提出を決めた。「周辺」の定義をめぐる国会論議が進行中だが、在日米軍(基地)の実際の動きはずっと以前から、極東をはるかに越えた所に及んでいる。本稿の主題の一つ、神奈川の基地群の湾岸戦争への関わりを見れば、それは一目瞭然であろう。

 「周辺事態法案」を廃案に追い込むためにも、こうした基地の運用実態にメスを入れねばと思う。基地に相対する現場で、そして市議会議員という立場に即して、反対運動をと思うのである。


コラム;厚木基地第3次爆音訴訟

 米海軍厚木基地の爆音被害に苦しむ基地周辺住民は、一九六〇年に厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)を結成、爆音被害解消の様々な運動を展開、座り込みなどによって飛行協定を勝ち取るなどした。しかし、空母ミッドウエーの横須賀母港化などによって、爆音被害が増加したため、一九七六年九月国を相手に飛行差止めと損害賠償を提訴(第一次訴訟)、その後、一九八二年には第二次訴訟も起こされた。

 一次訴訟は一九九五年一二月二六日東京高裁で最高裁の差戻し審の判決『厚木基地の爆音は違法性がある』との内容で、損害賠償が支払われた。

 しかし、その後も違法状態は解決されていない、法治国家としての基本が成されない状態が続いているため、爆同は第三次訴訟を提起、九七年一二月、地域ぐるみ、家族ぐるみの原告参加で、二八二三人が横浜地裁に提訴した。その後も原告の追加募集が行われ今年四月二七日の最終追加提訴で原告総数は五〇四七人の大型訴訟となった。

写真・図版(案)

 *突然のNLP…切抜き(縮小)

 *コーエン長官発言…切抜き(縮小)

 *インディペンデンス…写真

 *インディペンデンス航跡図

 *EA6B胴体…写真

 *PLコンテナ群…写真

 *補給廠から中東へ…切抜き(縮小)

 *どくろマークのドラム缶…写真(説明要)


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