相模補給廠の軍事医療施設を追う


相模補給廠の中央より少し北に、2棟の「医療倉庫」が「思いやり予算」により建築中で、間もなく完成する。補給廠には様々な装備、軍事物資が保管されているが、医療関係の装備は、その中でも大きな位置を占める。この「医療倉庫」が竣工間近の今、何故このような施設が補給廠に造られるに至ったかを、情報公開法に基づき入手した米軍資料を基に分析してみよう。

88年には新倉庫計画書

今回の「医療倉庫」建設は、90年度思いやり予算の申請から始まった。その後の審議で、実際に「医療倉庫」を建設する思いやり予算の年度は91年になり、代わりに2棟の一般倉庫が90年度で相模補給廠内に建設されることが決まった。『医療倉庫の建設は、陸軍の優先度一番のプロジェクト』(88年12月2日の会議報告)という位置づけを覆して一般倉庫に優先度を与えた理由は、今回入手した資料からは窺えなかった。軍の当事者が言うほどの緊急性は認められなかった、というところだろうか。いずれにせよ、90年度の思いやり予算の計画書が、今回の「医療倉庫」建設の位置づけなどを探る基本資料となる。
この計画書のオリジナルは88年5月30日付けで作成された。それ以降、6月20日付け、7月25日付けと2回書き換えられている。変わったところは、補給廠内での「医療倉庫」の建設位置だ。オリジナルでは西北端の野積み場だったが、6月には現在建設中の場所プラス西側のグラウンドとなり、7月に現在位置に落ちついた。88年2月付けのマスタープランに記載されていて、しかも現存の建物を取り壊す必要のない野積み場から現在の位置に変更された理由は何だろうか。当時の病院地区に近いためなのか、それとも何か有害物質が埋められているなど、野積み場を掘り返せない事情があったのだろうか。

計画書の内容は

規模は7000平米、有事に1000床の病院になる倉庫が2棟、ひな型は1000床規模の海軍艦隊病院である。艦隊病院については別稿で触れるが、1000床規模のものは、後方支援地域に建てられる。貯蔵された装備を用いて1000床規模の病院となる倉庫で、装備はモジュール化されて、20フィート・コンテナ/シェルターに収められている。
計画書によれば、新「医療倉庫」が必要な理由は『現在補給廠のいくつかの倉庫に医療物資が収められている。これらの倉庫は冷蔵、湿度管理機能がなくエアコンもないために、すぐに物資を交換しなければならず、維持費がかかる。またコンテナなどモジュール化された装備の保管に適していない』
また、この新倉庫が認められなければ『在日米陸軍の任務遂行の妨げになる。例えば医療物資をいつでも使用可能な状態に置いておくという任務遂行の妨げとなる』『92年4月までに完成することを要する』

DEPMEDSの配備計画

実は別表のように、87年度から93年度までで完了する、移動可能医療システム(DEPMEDS)の米陸軍全軍への配備計画が立てられていた(87年7月6日付けのDEPMEDSの説明書の付属資料)。色々な規模のDEPMEDSのセットが全部で156セット配備され、そのうちの94セットが陸軍予備役に、また25セットが州軍に配備されるなど、予備部隊中心の配備計画になっているが、最終の93年度には2セットが在日米陸軍に配備されることになっている。これが2棟の新倉庫に1セットずつ納まるためには、92年4月には倉庫が完成していなければならない、ということなのだろう。計画自体は5年以上遅れているが、倉庫が完成すれば『1000個の標準規格のモジュールが運び込まれる』。それは、完成後遅くとも1年以内だろう。

以前からあった軍事医療物資

では、なぜ相模補給廠にこのような「医療倉庫」が作られたのだろうか。この倉庫の計画書が出来る以前の医療装備関係の記述も、米軍の資料に混じっていた。
89年11月16日付けの「 OFF THE SHELF CONTRACTS についてのメモ」(医療計画担当将校発、在日米陸軍工務担当参謀次長あて)によると、『1981年には、相模補給廠に保管されている1000床クラスの病院セット2セットを素早く展開するために、26の "OFF THE SHELF"請負契約が準備されていた。このころの基準は、30日以内に病院機能を立ち上げるというもので、これらの契約も、その基準を満たすものだった』『病院のコアが完成したので、医療保管区域の14の建物は、もっと数を少なく出来る。昨年、第17地域支援群は、2セットの病院の資材を以下の5つの建物に集約すべきだ、と司令官に上申した』となっている。ここで言われている「病院のコア」とは、診療、手術、検査などを行う建物で、別の資料(90年1月23日付け)によれば、建物番号126−S7、つまり第2医療旅団司令部の看板が95年4月までは掛かっていて、96年4月にはカミサリーの配送センターに変わっていた建物のことだ。

医療旅団司令部が

在日米陸軍/第9軍団の90年度報告書の中に『90会計年度には、相模補給廠にある第2次大戦時の日本の病院の補修が済み、設備の取り付けが完成した。この病院は、200床の集中治療ベッドと、手術室10、集中物資供給施設、X線部門(固定4台、ポータブル5台のX線カメラ)、緊急措置室などで構成される。この病院は、相模補給廠内に貯蔵されている有事に備えた2000床分の設備の中核の役割を持つ。改善された設備は、劣化しないように包装されている』という記述があった。これが、やはり第2医療旅団司令部の看板の掛かった建物のことだったのだ。
そして、有事に備えた2000床分の装備が、80年代初めには既に補給廠に保管されていたのである。80年代に補給廠で働いていた人に聞いた「ベッドや注射器などが、色々な倉庫に保管してある」というのは、この装備のことだった。この装備に関して、前述の「OFF THE SHELF CONTRACTS についてのメモ」では、次のことを検討するよう求めている。

医療物資の保管、大倉庫へ統合

『・契約を見直して、病院が機能するまでの日数を出来るだけ小さくしてほしい。
・建物番号107−S1の倉庫を医療倉庫に変える可能性について。この倉庫を使用すれば、ベッド数は最大になる。
107−S1が医療倉庫に向いているのは
1.病院のコアに近い
2.生物化学装備補修機能や、制御された物資貯蔵庫が中にある
3.1つの建物なら、契約も一つでいい』
この検討の結果、107−S1が医療倉庫になったことは、例えば93年2月8日付けの「太平洋陸軍外科部長の相模補給廠視察予定表」に、107−S1が医療倉庫と書かれていることで分かる。ちなみにこの「予定表」では、126−S7は「ホスピタル」と表示されている。

軍事医療施設拡充の流れ

もう一度、年代順に医療関係の資材と建物の動きを追ってみよう。81年には(おそらくもっとずっと前から)有事に備えた2000床分の装備が、相模補給廠内の14の倉庫に分散して保管されていた。90会計年度(89.10〜90.9) にはそれらの装備の核となる病院が整備された。それに伴い、14の倉庫に入った装備を、1つの大倉庫に集約して、病院機能の立ち上げにかかる期間の短縮を図った。同時に、米軍全体で進んでいたDEPMEDSへの切替え計画(補給廠への配備時期は93会計年度の予定だった)により、90年度のおもいやり予算での、有事に病院に変わる医療倉庫2棟の建築を申請。これは91年度のおもいやり予算での建設として認められた。予算配分上の問題に、既存の建物を取り壊す作業時間が加わったためだろうか、実際の建設は遅れて、97年竣工となった。完成後は、1000個のコンテナなどが新たに運びこまれるとともに、これまで保存していた大倉庫からの医療物資の移動や、補給廠からの搬出が始まり、基地の内外とも物資の動きで騒然となるだろう。
ところで、一つ気になるのは95年4月以降にカミサリー配送センターになってしまった「ホスピタル・コア」の行方だ。おそらく、装備は107−S1に運ばれ、その倉庫のどこかに第2医療旅団司令部の看板がついたのではないだろうか。予備役部隊で、有事の際に各地の病院施設にやってくるこの部隊が、補給廠の医療物資の管理の最終責任を持っているのだろう。実際の管理は、補給廠の第35補給支援大隊がやるとしても..。

「倉庫」はまやかし

もう一つ、誤解がないようにしておきたいのは、この相模補給廠にある1000床規模のセット2つは、DEPMEDSの中の一般病院の区分に相当する。これは、その場所で病院に「変身」するもので、このセットを有事に運び出して戦闘地域に野戦病院を作るものではない。もちろんモジュール化されたセットになれば、一部を緊急によそに回すことはあるが、基本は補給廠の中で病院になる施設を「医療倉庫」と言っているのだ。ベトナム戦争のころ相模大野にあった米軍病院が、突如として補給廠に登場するようなものだ。「医療倉庫」の名前に騙されてはならない。

金子ときお・相模原市議

(初出 相模補給廠監視団ニュース 97.5)


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